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アニメとラジオが大好きな40代男子の独り言

西武ライオンズ球団史~黎明期~

ライオンズが西武を名乗ってから40年

福岡時代よりも長く所沢に根付いたことになる

そこで西武ライオンズ誕生から現在まで5つに分けて振り返っていきたい

今回は球団買収から根本監督時代について書いて行く

1978年クラウンライターライオンズから国土計画が買収し西武ライオンズが誕生した

史実ではこう書いているが実際は異なる

正確に書くと国土計画はライオンズを管理していた福岡野球株式会社から譲渡された

日本プロ野球の歴史において企業が運営していない球団は過去3例ある

東洋工業が参入する前の広島カープ

サンケイグループが身売りしヤクルトが買収するまで1年活動したアトムズ(現スワローズ)

パリーグでは東京オリオンズを買収したロッテは当初、永田雅一が球団の運営を行っていた

話は1972年に遡る

1969年に発覚した「黒い霧事件」で八百長を告発され

主力3人が永久追放処分を受けた西鉄は球団経営に行き詰まり

とうとう身売りを決断する

しかし身売りしようにも「八百長をしたチーム」のダーティーなイメージが拭えず

企業の買い手がつかない状況になっていた

そこで捻りだしたのが当時ロッテの球団オーナーだった中村長芳氏が運営会社を設立し

ライオンズのネーミングライツを企業に提案すると言う手法だった

以降6年間太平洋クラブ廣済堂が出資しているクラウンガスライタ―に命名権を与えていた

しかし当時の平和台球場の関係で福岡県議会と対立することになり

資金繰りが悪化

次々と主力選手をトレードで放出して凌ぐしかなかった

唯一東尾修ジャイアンツ移籍のみ抵抗し

「東尾の放出はチームの死を意味する」と発表して代わりに東尾と同格の加藤初を放出した

平和台の賃料が西鉄時代の数十倍まで請求された機に身売りを決意

国土計画に打診を図る

一方その頃、堤義明は新規事業として野球部を設立する計画を立てていた

プリンスホテル野球部」である

その練習拠点として所沢の狭山湖周辺に専用球場を建設

監督は堤の母校早稲田大学で監督を務めていた石山健一

野球には興味がなかったが企業イメージの一環として動いていた

そこで中村からの球団買収話

プロ野球の参画について堤は社員に球団買収に関するアンケートを取った

その結果圧倒的に賛成が多かったこと

そして野球ファンの熱量の高さを感じた事で球団買収にかじを取る

ここまでかなり長い前振りになってしまったが

西武ライオンズ成功のプロセスが埋もれているため敢えて福岡野球会社の話を書いている

さて球団を買収した堤義明はライオンズ再建に向けて奇抜なアイディアを繰り出した

一つは球団の運営を国土社員ではなくそのまま福岡野球株式会社の組織で進めた事

かつて近鉄で名スカウトと呼ばれていた根本陸夫に監督の続投

そして編成権を与えた

球団代表だった坂井保之も留任し引き続き球団経営を任せている

堤は敢えて現場には口を出さず球団運営は独立独歩

このモデルが弱小だったライオンズを復活させた一因だと思う

編成権を任された根本は積極的なトレードで戦力補強を行い

坂井は西武線沿線の子供たちをターゲットに営業戦略を展開

堤は創設1年目のキャンプから開幕直前までアメリカで調整させたり

球団マスコットとして手塚治虫に直談判してジャングル大帝のレオとライナの登用を承諾させた

球団サービスで言うと子供たちがみんな球団帽をかぶっていたし

ホームランを打つとライトスタンド後方から花火が上がる演出を産み出した

1年目のシーズンこそぶっちぎりの最下位に沈んだものの

1980年にスティ-ブを獲得として4位浮上

1981年はプリンスホテルに在籍していた石毛宏典を1位指名して新人王

4位に終わったが球団初の5割を達成するまで持ち直した

機を熟したと判断した根本は監督を退任し管理部長としてフロントへ

そして1981年オフ一人の名将を後任に据える事となる

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