西武ライオンズ球団史~廣岡招聘から新興球団へ~
1981年10月初代監督根本陸夫が球団管理部長に転身し
2代目監督として廣岡達朗を迎えた
元々は早稲田大学からジャイアンツに入団してすぐにショートのポディションを獲得
戦後間もなく水原監督のもとで築いた第一次黄金時代の中心選手だった
更に選手時代から確執があった川上哲治が監督に就任し
居場所をなくした廣岡はトレードの打診を断り退団
以降はアメリカに渡りコーチ修行をしたり
帰国後は自ら評論を記事にする仕事をしていた
守備の名手で地元広島生まれとあって招聘された
この時代ではチームとして結果を残せなかったものの
後の赤ヘル軍団である選手を次々鍛えている
1973年に早稲田大学の先輩である荒川博が監督に就任したヤクルトスワローズに入団
1976年成績不振により荒川が休養すると監督に昇格した
そこで廣岡は「管理野球」の原点ともいえる厳しい戒律を作り
セリーグで唯一リーグ優勝していなかった弱小球団を日本一に導いている
廣岡は自分の意見と合わないととことん反目する性格の為
敵を作りやすく選手や球団内部と折り合いは悪化する事が多かった
1979年に当時の球団社長とコーチの人事権で対立しシーズン途中で退団
野球評論家に戻っていたが指導者としてのオファーは絶えず来ていた
西武ライオンズは堤義明が掲げた「巨人を凌駕する球団」作りの為
根本は長嶋茂雄監督招聘に動いたが断られ
その後阪急黄金時代でパリーグ二球団目の3年連続日本一になった上田利治を担ごうとするも失敗
ここで両者が再び交わることとなる
1982年下馬評が低かったライオンズは5月から快進撃を見せ首位に立つ
根本もさらなる補強で後押し
ファースト田淵の守備の不安をホークスから片平晋作をトレードで獲得し陣容を整えた
阪急との首位争いで迎えた敵地西宮での直接対決
廣岡は先発に永射保を起用する
廣岡はこの時代の監督しては珍しく
先発投手はローテーションで固定
クローザーも固定する近代的な投手起用をしている
永射はこの年主に左打者専門のリリーバーとして起用されていた
大一番で奇策に打って出たのである
これが功を奏しそのままライオンズは前期優勝
日本シリーズでは東尾修をクローザーに回す大胆采配で日本一まで駆け上がった
廣岡の功績という事で紹介されているけれど
私は編成した根本の巧さの方が大きいと思う
軍隊式の厳しい指導は若手であれば萎縮するし
野村克也や土井正博の様なベテランがいたら不満分子として空中分解したかもしれない
東尾、山崎、田淵、大田卓司
主力どころがプロしてのメンタリティもあり
そして成績を黙って残せるだけの技術があったから機能したと思っている
翌1983年は開幕から投打が噛み合い独走
1シーズン制に戻っても完膚なきまで他球団を叩き潰しリーグ連覇
情勢は一進一退の攻防が続く拮抗したもの
しかしホーム後楽園で2試合サヨナラ勝ちしたジャイアンツが王手を奪う
所沢での第6戦1ー0とリードしながら9回に逆転
土俵際に追い込まれた
その時廣岡はベンチにどっかりと腰を下ろし攻撃を見ていた
本人曰く開き直りだったという
9回西本から同点に追いつくと
延長で江川から金森がサヨナラ打を放ち逆王手
雨で1日順延した第7戦はテリーの逆転打で競り勝ち
2年連続の日本一を達成する
黒い霧事件以降弱小球団と言われたライオンズが文字通り復活
スカイブルーのユニホームに世間は「新興球団」として存在を認めていくこととなる