古のヲタクという名称はルッキズムではないのか?

アニメとラジオが大好きな40代男子の独り言

西武ライオンズ球団史~新人類が作った黄金時代~

2年連続日本一になり栄華を極めたライオンズ

しかし根本は既に次の手を打っていた

1983年から毎年複数の若手選手を1Aサンノゼ・ビーズに野球留学させたのである

調べてみるとこれは根本の着想ではない

元々は福岡野球株式会社のオーナー中村長芳がロッテオリオンズ時代から行なっていた

ライオンズでも若菜嘉晴真弓明信を留学させている

常勝チームにとって1番のネックになるのは

勝ち続ける事によるレギュラーの高齢化だ

どうしても実績のある選手が優先され

世代交代が進まない

V9を達成したジャイアンツもわずか2年で最下位に転落した

根本は有望な若手を野球留学させることで

チームの選手層を上げて滞りなく世代交代させる事を目的とした

森監督時代の黄金期はこの下地がベースとなっている

1983年オフにファイターズの監督を退任しフロント入りした大沢啓二から根本に打診があった

「江夏を廣岡のもとで勉強させてもらえないか」

クロ―ザーとして絶対的切り札だったものの既に35歳

この年11勝挙げた川原昭二をクロ―ザー起用する為、放出に踏み切ったのである

根本は快諾し2人の若手投手と交換トレードで獲得した

その中にはのちに平成初のノーヒットノーランを達成した柴田保光が含まれている

廣岡は自分の承諾なしに進めたトレードに不満を持ち

これが根本との関係に亀裂が入ったきっかけとなっていく

1984年は開幕から南海ホークスと最下位争いをするほどチームは低迷

勢いが出ない状況で廣岡は決断をする

開幕当初ダブルストッパーとして起用した江夏を二軍へ落とし

不振をかこっていたV2戦士田淵と山崎を事実上の戦力外とした

3人とも廣岡の一方的なやり方に怒り

このシーズンでいずれもチームを退団している

代わりに目をかけたのが秋山幸二伊東勤の同級生コンビと

この年ルーキーで入団した辻発彦

投手では就任当初からリリーフで起用した工藤公康

そしてドラフト1位の渡辺久信をローテーションに起用してチームを立て直した

夏場までは下位に低迷していたが8月後半からチームは持ち直し

何とか5割超えの3位まで浮上することが出来た

1985年捲土重来を期す廣岡は開幕から独走

前年起用した選手はいずれも主力に成長し

弱点だったセンターもドラゴンズから田尾安志を加えた事で

好守に隙がなくなった

だがこの年になると廣岡は健康上の理由でベンチから外れる試合が見られ

実際に優勝を決めた藤井寺の胴上げもヘッドコーチだった黒江透修が務めている

日本シリーズダイナマイト打線で打ち勝ってきた阪神タイガース

廣岡はバースの前にプッシュバントするよう指示しスモールベースボールで対抗したが

ホームラン攻勢で大量点を許し2勝4敗と初めてシリーズで敗戦した

このオフのドラフト会議を巡って根本と廣岡は再び対立する

清原獲得を強く進言した根本に対し

投手指名を譲らなかった廣岡

意見は平行線のまま最後は痺れを切らせた廣岡が辞任することになった

東尾は秋期キャンプの移動中のバスで知ったそうで

その場に居合わせた選手が全て歓声を上げて喜んでいたと語っている

後任になった森祇晶はかつて廣岡の腹心として管理野球をまとめていた人物

外野からは厳しい指導になるため成功しないのではと言われていたが

森自身は廣岡のやり方を否定しており

あくまでも選手の立場を尊重してチームをまとめ上げていった

この頃世間で20代の人間を「新人類」と呼んでいた

それまでの常識とは違う言動や行動をしているから

プロ野球の選手も口数が少なく

洋服も車もちょっと怖い方と見分けがつかないような恰好をしていた

しかしこの時代になると若手選手は今時のDCブランドを着こなし

ファッション誌のモデルになっていたり

発言も言葉数が多く

工藤公康はあの頃から今と変わらず軽妙な語り口で楽しませていた

時代の転換期を上手く利用して

豊臣秀吉のように「泣かぬなら泣かせてみようホトトギス」で

V9に並ぶ黄金時代を築き上げた

在任9年間のシーズンを振り返ると

唯一優勝を逃がした1989年の前と後ろで戦い方が真逆になっている

前半の4年間は序盤各球団の戦力を見ながら戦い

勝負所の夏場からペースを上げて首位に立つパターン

1990年以降は先行逃げ切りで押し切っていく戦いになっている

分析すれば前半は怪我やコンバートがあって

チーム全体がフィットするのには時間がかかった

特に1987年は田尾の移籍と石毛の負担軽減を図るために

サードを守っていた秋山をセンターへ

ショートのレギュラーだった石毛をサードに回し

空いたショートは前年野球留学していた田邊徳雄に任せた

更にオープン戦で辻が右手に死球を受け半年離脱

急遽田邊と同じく野球留学組の笘篠誠治が代役を務めた

結果優勝はしたものの打撃成績は打率がリーグ最下位

3割バッターがレギュラーで一人もいないほど低迷している

1989年は伊東が開幕から1ヶ月離脱し

前年35ホームラン打ったバークレオが不振

急遽獲得したデストラーデが活躍し首位浮上するもののブライアントの前に敗れ去った

堤がオーナー報告に来た森に「監督をおやりになりたければどうぞおやりなさい」と言い放つのはこの時である

会見を見た直後、石毛宏典はすぐに電話をかけ

「来年は必ず優勝しましょう」と森を励ました

1990年からキャンプ地は11年ぶりにアメリマウイ島で行われた

この年からパリーグ記録の5連覇を達成するのだが

大きな変化がいくつかあった

まずレギュラーの完全固定化

スタメンのメンバーが併用しているレフト以外すべて同じ

投手陣もこれまではブルペンを軽視していたが

ジャイアンツからトレードで獲得した鹿取義孝

ドラフト1位で入団した潮崎哲也を勝ちパターンに加える事で

陣容がかなり変わった

先行逃げ切りになったのも

チームの戦力が充実期に入り

相手を分析しながら合わせる事をしなくてもよくなったから

1990年はペナントレースを独走してリーグ優勝を奪還すると

ジャイアンツ相手にスイープで日本一

中学2年生だった私にとってまさにわが世の春だった

しかしチームが活躍する一方で

西武ライオンズのフロントは徐々に変化をしていく

1988年に東尾修と打撃コーチの土井正博が賭けマージャンの現行犯で逮捕

その引責として坂井克之が球団代表を辞任した

1989年は小島弘務が在籍上プロに入団できないことが発覚

ライオンズ選手として無効の裁定が下される

さらにまだ指名されていないに選手を練習させたことがリークされてしまう

この時代ライオンズはドラフト指名選手に対して「テスト」と称して

基礎プレーの精度や体力を確認していたと言う

立て続けに「プロアマ規定」違反をする根本に対し

長野オリンピックの責任者でもあった堤義明は徐々に関係が悪化していく

そして1992年

西武ライオンズにとって大きな転換期が訪れる事となる

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