古のヲタクという名称はルッキズムではないのか?

アニメとラジオが大好きな40代男子の独り言

寝業師が遺した遺産

今夜はクリスマス

キリスト教徒にとって特別な日

そこである1人の偉大なる野球人について語りたい

根本陸夫

現役時代は近鉄にキャッチャーとしてプレーしていたがわずか5年で引退

その後はコーチ、監督、フロントとしてNPBに携わり

現在のライオンズ、ホークスを作り上げた人物

幅広い人脈と巧みな辣腕ぶりに「球界の寝業師」と評されている

私も生前のイメージは強面で表情1つ変えないのが不気味で

表舞台には殆ど現れず裏で捌く実務者の顔が印象に残っている

三木谷氏や孫正義氏とは比較にならないワンマン経営者だった西武グループ天皇堤義明の口から

「全てのことは根本に聞いてくれ」

と言わしめた人物

だが改めて根本陸夫の歴史をたどって行くと人情家としての側面に触れることができ

球界でも傑出した人物である事を再確認した

彼の球歴は漫画で言うところの「巻き込まれ型主人公」

プロ入りしたのも同期だった関根潤三氏が近鉄に入団していたからで

現役晩年は素人監督に変わりピッチングコーチのような役割をしていたと言う

引退後はそのままスカウトになり数々の選手を獲得しているが

特に有名なのは「18歳の四番打者」土井正博

その素質に惚れ込んだ根本は高校を中退させプロ入り

別当薫監督に進言し新人の四番打者が誕生した

高校三年生がプロの一軍投手と対戦するのだから当然成績は残せず

土井自身も「四番を外してほしい」と頼んだが別当監督は「使っている俺も苦しい でも将来を考えればお前を使うしかない」と返し熱心に指導した

そして母子家庭だった土井の父親代わりとして根本が支えていたと言う

現役引退の年は監督と選手の立場だったが根本は現役を続けようとした土井にこう諭した

「来年から広岡を監督に迎える お前は広岡には起用されないからユニホームを脱いだ方がいい」

今ならとんでもない引退勧告だが土井はユニホームを脱いだ

その後はライオンズの打撃コーチとして清原和博松井稼頭央中島裕之を育て上げた名伯楽

今でもライオンズの選手が初球から強くスイングする姿勢も土井正博の教えが息づいているものだ

近鉄を退団し野球界からも離れようとしていた根本だったが

日大三高で学生監督していた頃に教え子だった人物がスワローズの球団幹部だった縁で人脈ができ

松田オーナーの要請で広島カープに入団

監督としてのキャリアをスタートさせる

当時はまだドラフト制度が始まったばかり

有力な選手を集めることができず毎年最下位を争うチームだった

そこで根本はタイガースで晩年を過ごしていた山内一弘をトレードで獲得する

優秀な選手を間近においてチームの底上げを図ると言う現在に通じる戦略で球団初のAクラス入りを実現させた

その後の成績は振るわなかったが守備走塁コーチに巨人を追われるように引退した広岡達朗を招いた

広岡はこの時の思い出としてある選手のコンバートについて語っている

「最初任された時は無理だと言った 実際いくら教えても上達しない だが根気強く教えたらある時を境に急激に変わった この事が私の指導哲学になっている」

その選手は現在スカウト部長として有名な苑田聡彦である

広島を退団した後、再びユニホームを着る事になったのも社会人時代にバッテリーを組んでいた安藤昇に声を掛けられたから

出向いた場所は博多

かつては野武士軍団として栄華を極めたが黒い霧事件で主力選手が永久追放され弱体化

球団名はクラウンライターライオンズと変えていた

観客動員減少で球団に資金はなく

練習球はボロボロでタオルも新品なものが使えない程の困窮ぶり

それでも根本は若手選手を抜擢しチームを立て直す

中心になったのはショートに抜擢した真弓明信立花義家若菜嘉晴

しかしチーム成績には反映されず当時球団を管理していた福岡野球会社は球団売却を決意する

名乗りを上げたのが西武グループの国土計画

総帥の堤義明は買収するにあたり社員にプロ野球についてアンケートを募った

すると社員からはプロ野球に対する人気の高さや買収賛成の意見が多数を占めていた事を知り堤は球団経営に乗り出す

西武ライオンズの誕生が根本陸夫を「寝業師」にさせた

まずドラフト会議では2度指名拒否をした森繁和を敢然と1位指名

東京ガスでプレーすると表明していた松沼兄弟を争奪戦の末獲得

ロッテで構想外になっていた山崎裕之を金銭トレードで自由契約になった野村克也も入団させ

極めつけは自ら育てた真弓、若菜を放出してミスタータイガース田淵幸一をトレードで移籍させた

今の球団ホームページでは西鉄からの福岡時代についても記載されているが

堤がオーナーだった時代には福岡時代の記述は全く話すら出なかった

名実ともに「新しいチーム」としての船出をすると言うのが後の星野仙一や現在の石井一久の補強戦略に引き継がれている

監督としては3年間全てBクラスに終わったが年々成績を上げており

機を熟したと判断した根本は広岡を監督に迎えフロント入り

常勝軍団を作り上げていく

西武時代の話は沢山ありすぎるし正直ダーティーな部分が多い

でも在籍した森繁和大久保博元は根本のことを「おやじ」と呼んでいるし

移籍で放出された選手も干されたと言うより期待されていたと言う意識があるようで

個人的な不評は全くなかった

1992年オフにダイエーホークスの監督に就任しライオンズを退団

この後亡くなるまで在籍する事になる

ホークスでも始めに行ったのは大型トレード

AK砲として中心選手だった秋山幸二を獲得

放出したのは当時の主力佐々木誠とエースだった村田勝喜

かつてのライオンズ同様既存のチームを壊す戦略を取った

ドラフトでは駒沢大進学を表明していた城島健司を1位指名

逆指名制度を利用して山山コンビとか井口、松中、柴原の同時指名など派手な展開を見せていたが

よく見てみると必ず九州各地の選手を獲得している

近代ではスタンダードになっているマーケットの拡大と地域密着型

根本が道筋をつけたと言ってもいい

この着想はかつてクラウンライターを率いていた時代を知っているからこそ出てきたのかなと

熱しやすく冷めやすい福岡のファンだけでなく九州の代表としてホークスを根付かせよう

その姿勢が現在にも続いている

晩年に落合博満がキャンプへ訪れた際に根本はこう語った

「監督になるなら森繁和を使え 必ず役に立つ」

監督8年間のベンチには常に参謀として落合の隣には森繁和がいた

根本陸夫の凄さは「革命児」と呼ばれたドラスティックな球団経営もあるけれど

ここに登場する人物全て野球界で活躍している事に驚くばかりだ

人を残すと言うのがどれだけ組織にとって大事なのかを学ばせてもらった

ウィキペディアに掲載されていた情報では実家が熱心なキリスト教徒で根本も9歳で洗礼を受けたのだと言う

人情家の根底にはキリストの博愛主義も少なからず入っていたのかもしれない

寝業師が我々に遺したもの

その意味を噛み締めて野球界は進んでいってもらいたい

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